スパン35メートルからのデザイン・ブログ

軽量・構造・デザイン


ミュンヘンオリンピック競技場

昨日(2015年3月10日),フライ・オットーの2015年のプリツカー賞受賞のニュースとともに,訃報が報じられました.受賞と訃報に関係はなく,本当に偶然だったようで,ただただ驚きました.

プリツカー賞HPによると,受賞は今年の始め(2015年1月)には決まっていて,すでに本人のもとには関係者が報告のために訪れていたようです.二週間後の公式発表を控えている間の訃報で,急遽プレスリリースとなったとのこと.御年89歳でした.

私がドイツに来た2006年頃は,どこどこで講演をしたという話もちょくちょく聞いていたのですが,視覚が不自由になったとのことで,その後は公の場に出てくるという話をほとんど聞かなくなりました.それでも,これだけの功績のある人なので,シュトゥットガルト界隈ではいつでも名前が出てくる人でした.

ケルンのダンス場の隣にある膜屋根 author visited:2012-05
フライ・オットーは,言わずもがなドイツが生んだ,軽量構造の巨人の一人です.最も顕著な功績は,膜を恒久的な建築構造として活用する道を切り開いた点.

最も有名な彼の代表作の一つであるミュンヘンオリンピック競技場の屋根にはいつ行っても驚かされます.まだ構造解析を主に手計算に頼っていた時代に,テン ションだけで成立させている前代未聞のこの構造システムをこの規模で設計できるものなのか,いつ見ても己の小ささを実感させられる建築物です.こんなもの が,1970年に実現したことも奇跡的ですが,40年近く経った現在でも,その姿を変えずに存在していることも奇跡的に思えます.

ミュンヘンオリンピック競技場

フライ・オットーは建築家でもあり,エンジニアでもあったという紹介のされ方が多いですが,彼の業績に注目すればその呼び方は正しくもあり,同時に正しくないということが分かります.

ミュンヘン・オリンピック競技場における彼の役割が,それを最も端的に示しているのではないでしょうか.つまり,建築の設計において,建築家を,プログラムを組み立てて建物全体のデザインを統括をする職種の人間とするならば,この時その役割を果たしたのは,コンペで一位を取ったギュンター・ベーニッシュ(Günter Behnisch)でした.前代未聞の屋根部分を実現させるために,コンサルタントとして呼ばれたのが,オットーです.だかと言って,その屋根の構造を解析をして安全性を数値的に証明したのかと言えば,そうではありません.その役割はエンジニアであるレオンハルトの仕事でした.

建築家とエンジニア,そのどちらにも当てはめられない存在であるにも関わらず,理論と実践の両面で多大な功績を残したことが,彼の偉大さの証明の一つであろうかと思います.

ミュンヘンオリンピック競技場は,エポックメイキングな存在として,その後のシュトゥットガルトの歴史に多大な影響をもたらします.数え切れないくらいの良い影響とともに,悪い影響ももたらしましたが,その一つがオットーとヨルク・シュライヒの断絶でしょう.

当時,レオンハルト事務所のエンジニアであったシュライヒは,若干33歳にして,このビッグプロジェクトのプロジェクト・リーダーを任されます.ここで2つの強烈な個性はぶつかり,その後,二人はシュトゥットガルト大学の同僚でありながら,一切の協働をしないことになります.その後のオットーのエンジニアリング面でのパートナーはハッポルド氏などが努めます.

軽量構造において世界を牽引していた二人が,常にわずか数百メートルの距離に居ながら,協働することはなかったというのが実に人間臭い話です.ちなみに,この2つの研究室オットーのILとシュライヒのEKは,後にゾーベックという存在によって統合され,ILEKとなりました.

オットーの研究所IL(現在のILEK)
ちなみに,この断絶が実際の現場ではどうだったのかというと,例えば私の周りにはシュライヒ寄りの人間が多かったので,オットーのパーソナリティについてはあまり好意的なものは聞いたことがありません.(とはいえ勿論,ヨルク・シュライヒご本人から,オットーについて悪く言っていることは聞いたことはありません.)

しかし今思えば,こういう一件ゴシップ的な話さえもシュトゥットガルトの歴史をドラマチックにし,文化としてより深みを持たせた一つの要素に過ぎないように思えます.

マンハイムのホール author visited:2013-10
個人的な話ですが,私の博士論文のテーマは,新しい膜の可動式屋根の開発でしたが,歴史的な文脈としてはやはりフライ・オットーから始まったものでした.オットーとフランス人の建築家タイリベルトが協働して生み出し,図らずもそれを引き継ぐような形で,シュライヒが進化させた折りたたみ膜屋根.それに携わったのが,若き日のゾーベック,と実にシュトゥットガルトの歴史が詰まったテーマでした.

私がオットーの偉大さを感じるのは,上述のミュンヘンオリンピック競技場もそうですが,彼の手がけた代表的な軽量構造物が未だに多く残っている点です.テンション構造物は,力の伝達という点で最も効率的ではありますが,リダンダンシーの少なさがそのまま構造物の寿命の短さにも通じています.

1957年完成の彼の代表作である,ケルンのダンス場の膜屋根は未だに健在です.(勿論,膜は張り替えられているでしょうけども.)

ケルンのダンス場 author visited:2012-05
黎明期の膜の折り畳み屋根としては、1969年完成のBad Hersfeldのものも(夏季期間限定ですが)未だに現役です.

Bad Hersfeldの膜の折りたたみ屋根(膜は取り外し中) author visited:2013-10
勿論、物質的な寿命とは少し違う話ではあります.しかし、果敢に未踏の地に挑戦するという技術的な野心と美しさへの探究心が,時代を切り開き,「軽量構造物は持たない」といった程度のセオリーならばふっ飛ばしてしまうほどの強度を身に纏わせたのではないでしょうか.

オットーの美への探究心は,私は非常に興味を持っている点でして,これはまたいつかゆっくり書きたいと思っています.例えば,上述のミュンヘンオリンピック競技場では,屋根の造形的な美しさを重視し,曲率をできるだけ小さくしたいオットーと,アンカーを小さくするために,できるだけ屋根の曲率を大きくしたいシュライヒとの間で相当なやりとりがあったそうです.

オットー設計の歩道橋 Wattenscheld, author visited: 2006-12
あと,オットーには,バックミンスター・フラーにも似た,哲学的な思想も持っていた点も興味深いですね.有名なのもので,丹下健三らと協働の南極のドーム構想(1959年,1971年)などがあります.先日,似たようなユートピア構想(のように見える)BIGと Heatherwick設計のGoogleの新本社のイメージが発表されましたが,オットーというヴィジョネアが夢に描いていた世界が,徐々に現実的になって来ているのかも知れません.

私にとっては,フライ・オットーという存在は遠いような近いような,なんとも言えない距離にいる方でしたが,シュトゥットガルト・スクールの末席で学んだ者として,心からの尊敬と哀悼の意を表したいと思います.

http://www.pritzkerprize.com/


デュッセルドルフ近郊のプールの折りたたみ式膜屋根.オットー設計のものとほぼ同じ型 author visited:2012-05

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ドイツ在住の橋梁・構造エンジニア / email: motoi (at) masubuchi.de

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